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           華 〜朱〜  30F  2000年                        華 〜薫る山〜  30S  2000年


     明晰な神秘 −ほのかに白しー                     米倉 守(美術評論家)

額の大きいやや面長のいつまでも少年臭さの消えない志水堅二は、気のいいダンディー。葉巻をやり、パイプを燻らせる。いつもはにかみのようなものを全身に沈ませている。
 表現は的確であり、学校臭いアカデミックなところもない。颯爽として清涼感のある志水の描く作品は、明るい色調のうちにどこか憂愁の翳りのようなものを漂わせている。
 献花のような盛り花を描いたものに、その翳りの色合いは濃いように思う。

「世界とその神秘の深さは、蜘蛛の黒ずんでいるところにはない。深さは澄んだ明るさの中にある」(ヘッセ)

 私もまた本当の神秘は明るさのなかにある、と感じるから、画家にそのことをいったこともある。が、
ひたすら自分に正直であろうとしている志水の胸中にあるものは吐息のような哀歓を織り成して重く画面に沈んでいる。

 この若い画家の憂愁の気配はどこからきているのだろうか。私にはそれは外側からきたものというより、内側から志水堅二に忍びよってきたもののように思えた。
まだかたちにもならず、名づいてもいないが、少年の日からの持ち前の詩魂のわざではないか、と私は読んでいる。はずれているかもしれないが、志水の詩魂は、明るい空に舞い上るよりも、地下水のように少年の魂の底に深く沈み流れていた。今、画家はそれを人前に曝すことをひどくはにかんで真昼に迷っている。闇では迷いようがない。洒落た迷いである。
 人間は太陽の光とはちがった別の光がなければ生きてはゆけない存在である。植物の花とはちがった別の華がなくては一日も生きてはゆけない存在でもある。志水堅二もまた花を求めながら、その花の背後にあるひとつの美の原型を渇仰しているのである。志水は花々を写そうとして眼底にたかまる豊潤な品格と弾力ある厳粛を描こうとしている。湖水を写そうとして胸中にあふれる空潤を描こうとしている。乾燥草花を写そうとして心中みなぎる孤独と雄渾を描こうとしている。志水の孤独な少年の目の詩魂は夜も昼もその胸中に羽ばたいて止まないのだろう。
永遠の花文字を書くような志水堅二の幻花の作品群を見て、いずれも画家の胸中の孤独な詩魂の微かな羽音を私は聞いていたのである。

   海暮れて鴨の声ほのかに白し

芭蕉は“鴨の声”を「ほのかに白し」と言った。「白し」は日常的な青や赤に対する「白」ではない。

“『素秋』の素、すなわち、身にしみ透るような無色透明の感として用いられている”(尾形仂)という。蒼然たる暮色に包まれた冬の海の上に“ほのかに白し”を聴きつけた「鴨の声」は、海を包む夕闇がもたらした幻聴であったろう。素肌の「素」でもあるほのかで白い声の向こうに、私は志水堅二の絵の方向を見ている。志水の画心はいつも決して渇濁したことはなかった。憂愁の翳りはいよいよ澄んできたかのように見受けている。
 ダンディズムよ、では御機嫌よう

                                         
(2001年 志水堅二展パンフレットより)